金谷カテッジイン・金谷ホテルのはじまり
1870年(明治3年) のこと、ヘボン式ローマ字綴りでその名を今に残すアメリカ人宣教医ヘボン博士が日光の地を訪れました。東照宮の楽人金谷善一郎は、その時はじめてヘボン博士に出会い自宅を宿として提供しました。ヘボン博士は、今後日光を訪れる外国人は増加の一途を辿る。 ぜひ外国人相手の宿泊施設を作るようにと善一郎に進言し、居留していた横浜へ帰りました。善一郎はこの言葉を受けて民宿創業を決意し、四軒町( 現在の本町) の自宅を改造して、1873 年( 明治6 年)6 月に金谷カテッジインを開業しました。 これが金谷ホテルの始まりです。当時の日本には、長期のバケーションといった慣習も、リゾートという概念も、ましてや洋食(肉食)といったものすらない、そんな時代に外国人を泊める Inn として歩み始めました。 どんな食事を出したら宿泊客に喜ばれるのか、外国人客と日本人の生活習慣の違いなどなど、金谷カテッジインの運営は手探りの連続だったに違いありません。
日本のリゾート避暑地として
1878年(明治11年) には、ヘボン博士の紹介によって[金谷]に訪れた英国人旅行家イザベラ・バード女史がつづった「日本奥地紀行」や、当時の在日英字新聞などで紹介されるや、[金谷]は「日本のリゾート避暑地=日光」の宿泊施設としての地位を確実なものとしました。 そして1893年(明治26年)に、日光山内をのぞむ現在地で2階建て洋室30室の日光金谷ホテルとして営業を開始。1897年(明治30年)には、帝国ホテル(東京)、都ホテル(京都)、富士屋ホテル(箱根)、大阪ホテル(大阪)とともに「5 大ホテル同盟会」を結成、1916 年(大正5 年) には、早くもフォード自動車を購入し宿泊客の観光の便宜を図るなど、黎明期の日本ホテル界の先頭を歩んできました。
金谷ホテルとパン
1925(大正14)年には川津勝利が金谷ホテルに入社し、以後60 年近くにわたってひたすらにパン作りを追求。 村上新一とともに、製パン部門を著しく発展させました。製品の開発意欲はもちろん、特に材料の吟味と厳格な工程管理は他の追随を許さず、一心に最高のパンを求め続けたのです。 果敢なパイオニア精神と、最高のものを求め続ける心。これが金谷ホテルの伝統です。現在お届けしている「金谷のパン」やクッキースをはじめ、この伝統は当社製品の中に脈々と受けつがれています。
ロイヤルブレッドの生みの親 川津勝利
川津勝利は明治38年(1905年)9月8日、都賀町大橋の農家の次男に 生まれ、大正13年(1924年)桐生高等工業附属商工補習学校紡織科を卒業後日光に移住。料理と製パンを習うため、大正14年(1925)年3月25日に金谷ホテルに入った。 大正14年(1925年)11月30日から昭和2年(1927)年11月18日まで兵役招集された後、昭和2年(1927)年11月21日に復職。以後昭和19年(1944)年2月25日から昭和20年(1945年)3月31日までの間を除き、永年にわたり料理部において製菓、製パンに携わった。 昭和40年(1965年)定年退職後も引き続き嘱託として製パン工場長を務め、通算50年以上もの間、ひたすらにパンを作り続けた。金谷ホテルでは「パンの神様」と呼ばれ、今ある金谷のパンの数々を作り出した。 日光市長賞、栃木県知事賞、運輸大臣賞などを受賞し、昭和52年(1977年)春の叙勲において勲六等瑞宝章を受章した。